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10/15

 執筆にハマり込んでいた時期、色々な苦境が遭ったにもかかわらず、比較的落ち込むことなく、むしろそれをバネや燃料にしていたことを思い出した。
 当時は自身の負けず嫌いな性格や、「この苦痛を創作として昇華できるぐへへ……」といった盲目的な創作意欲によってこの現象が起きていると思っていたのですが、実際はきちんとした名称があるらしく、これを「自己高揚的ユーモア」と呼ぶらしいですね。自分の頭が創作によりおかしくなったのかと思っていた……。

 ちょっと軽く検索してみたところ、大きく分類するとこの思考法にも四種類あるらしく、「自己高揚的ユーモア」「親和的ユーモア」「攻撃的ユーモア」「自己卑下的ユーモア」とそれぞれ特徴が異なるみたいですね。分かりやすく簡単に解説していらっしゃったブログがありましたので、そちらを参照にどうぞ。

 個人的な備忘録として、簡単にそれぞれの思考の具体例を書き出してみると、以下の通りだろうか。

●起こった出来事
 雨上がりの道路で、乗っていた自転車が横転した。

●自己高揚的ユーモア
「ほあ~~~、雨上がりの路面は滑りやすいんだな! 勉強になる! スリップしたときのタイヤの滑り具合、凄かったな! 危機的状況に起こる動悸の激しさとか、なかなか体験できないし、こういうのって本当に息をつく間もなくあっという間なんだなあ。これくらいの転倒で、これくらいの怪我になるのか~~~なるほど!」

●親和的ユーモア
「うわー、そういえばこの前に友人も自転車で転倒したって言ってたなあ。気を付けていればないとは思ったけど、気を付けててもなるもんなんだな。あの傷の痛みが身に染みて分かるわ……」

●攻撃的ユーモア
「ハー、最悪。めっちゃ痛いし、もっと自転車の安全性高めろよ……」

●自己卑下的ユーモア
「あー、まあ、これは焦ってブレーキかけずに走った自分が悪いわ。うん、注意してなかったから仕方ない」


 極端な例だけれど、こんなかんじだろうか。自分が昔、感じていた「この苦痛……小説の文章表現のときに役立つな!」と思ってたものは、一番上の「自己高揚的ユーモア」に当てはまる。
 上記の中でも特に「自己高揚的ユーモア」の思考を持つと、人生を歩む上で良い傾向・楽観的思考・幸福感の上昇などがあるらしいが、それは確かにと思っている。耐えがたい苦痛であれど、思考の転換によりそれを糧と化すこともできて、あの頃の自分はある種の無敵モードでもあった。一瞬へこんだとしても、次の瞬間には「創作のネタとして活かせる」と考えて活き活きしていた。

 だがしかし、自己高揚的ユーモアを身につけ続けるのは意外にも困難で大変なのかもしれない。今現在はそういった思考の傾向はなく、何か恐怖や不安に煽られると受け止めきれず、回避しようとしたり身構えて反撃しようとしたりする。「なるべく平穏に生きたい」という思いが殊更に募り、その先に悪いことが一パーセントでも起きる可能性があるのなら、たとえ大半が良い出来事であったとしても極力回避しようとしている。
 なんというか……、不安と恐怖を受け止めるコストが、ある時を境に限界を超えてしまって決壊してしまい、それ以来はちょっとでも不安と恐怖が舞い込むと、過剰な防衛反応が起きているように思うのだ。老化か? 老化な気がするな。体力が落ちると反骨精神も弱くなる。

 以前と比較して、反応を受信する電波の感度が物凄く高まってしまっているために、冷静に考えると「なぜそんなところで反撃しようとするのか?」「どうしてこのような部分に恐怖や不安を感じたのか?」と疑問に思うような些細なことで、唐突に防衛しようと攻撃したくなったり身を縮めたりするときが増えたように思う。
 漠然と、この感覚をどうにかしないとなあと考えているが、真正面から向き合うことなくやり過ごそうとしているので、改めて自分の感覚を観察して、どうしてこんな反応をするのかと分析してみる。解剖して解決策を練ってやれば、少しは落ち着くかもしれない。

 ということで、長い自分語りです。自分語りというより、観察して分析する考察文に近い。主に悩みの種となっている、以下の三点を重点に考えてみる。

■作品に対する人からの反応が怖い
■作品を公開する訳
■感想や反応を貰うと身構える


 以下、畳む。


■作品に対する人からの反応が怖い
「反応を貰えないと、モチベーションが下がる」「感想を貰うと嬉しい」。これらの思考を持つ人のことを、正直自分は羨ましいと感じている。自分一人で自己完結せず、作品という繋がりを持って、人と交流しようとしている面が見られる。生産者は消費者によって支えられ、消費者は生産者によって支えられている。その相互関係が成立して健やかな人間関係を築けているように見えて、そういうのが羨ましいなあと思っているようだ。
 また、作品を生産するからには、必ず一人はそれを消費して胸打たれたり、反応を返そうとする人が出てくる。短期でより閉鎖的な空間で作品を見せるなら無反応なこともあるが、長年継続して人目につく場所に掲示しているならば、必ず一人は反応を示してくれる人が出てくると思っている。
 そして、私はそのたった一人でさえも交流を拒絶して交流を怠りたいほどに、「人からの反応」に対して酷く怯えているようだ。

「じゃあ、なんで世に出してんだよ~~!」って、毎度ながら思うし、自分で自分に反論したりしている。自己完結で済むなら誰にも見せずにいればいいのに、なぜ公表するのかと、自分でも不思議に思う。
 根底にやはり「人からの反応が欲しいと思っている」のかとも考えたが、どうにもその欲望がこういった行動に繋がっているとは考え難い。まったくないとは言い難いけれど、それを根拠に作品を公表しているかと問われると、少し違うように思う。
 うーん、なんなんだろうなあ。一つ一つ分解して解析していこうか。

■作品を公開する訳
「作品を公開する理由は●●です」といった風に、ある感情や思考の一つだけが、公開に至るまでの行動原理になるわけではなく、色々な理由が重なった結果、作品を公開するという形になっているのだろうと考える。

●なんとなく
 作品を公開することに、特に理由がない場合もある。「公に出すことを、そこまで重く捉えていない」パターンだ。
 なんかよくわからんが、公開できるから公開しただけ、といった風に、「公開したら終わり」で、公開した後のことをなんにも考えていない。公開した作品が、誰かに影響を与えるとも考えていない。そのため、誰かからの反応がくると、唐突さを感じてビックリするのかもしれない。
 実感としては、40%~50%ありそう。

●公開するまでが創作のワンセット
 これも上記と同じく、創作行為を「作品を作る~公開する」までのワンセットと考えているパターンである。
 作品を世に公開する作業までが創作の一環として組み込まれているため、感想や反応がくることは特に考えていない。それらは付加価値みたいなものなので、感想が来ようが来なかろうが、それによって創作行為に大きな影響を受けることはない。
 これも実感として、40%~50%くらい。

●反応が欲しい
 作品を公開する理由として、よく大々的に挙げられる理由がコレ。「公開するのは反応が欲しいからだ」という理由は、「注目されたくないなら、ずっと家にいろ。外に出るってことは、自分を見てほしいって気持ちが少しはあるんだろう?」といったような、偏った暴論に近いなあと、自分は思ったりする。
 まったくないとは言い切れないが、あるとしても10%~20%くらいの低さかなあと感じている。

●義務感から
 別に表に出さずに自己完結できるものだが、作品を待っている(反応してくれる)人が出てきたために、義務感からその人に見せるために公開しているパターン。
 これは反応を得るための快感というより、「公開しないと見放されてしまう」という見捨てられ不安からくる、焦燥感による公開作業をしている気がする。リスク回避のために行っていたり、責任感からくる行為でもある。
 実感としては40%くらい。

●共感者を探して
 自己表現として創作をしている場合、自分と同じ感覚を持つ人を探して、公開することがあるかもしれない。
 共感してくれる人を確認することで、自分だけの苦痛を薄めることができるし、共感してくれた人の苦痛も多少は和らげることができるので、お互いにWin-Winな結果が期待できる。
 これは30%くらい。

●公にすることで見える視点があるから
 あえて人様の目に晒すことで、作品の質を洗練させる効果を見込んでの公開である。見る人を意識するからには、いい加減にしていた部分を見過ごさずに向き合い、なるべく妥協しないように高品質なものを提供しようとする意識が湧き上がる。
 人目を気にする性質を逆手にとって、作品自体のクオリティアップを目指しての手段として、公開という行為をしている。
 他にも、公開することで冷静になり、後々にその作品の問題点を客観的に捉えて気付く点もある。修行僧に近い。
 実感としては、これも30%。

●供給者としての優越感から
 人に恵みを与えることで快感を得られるタイプであると、作品を公開すること自体が、施しをしているようで優越感を得ている可能性もある。生産者が優遇される環境だと、より強く効果が表れるだろう。
 うーん、10%~20%。

●実績感覚
 作品を公開することを、ゲームの実績解除みたいに達成感があるため、公開という形を取るタイプ。公開数がカウントされたり、自分で数えたりして、その数字の積み重ねを見て快感を得て、「今月でこれだけの数の作品を公開できた! よっしゃあ!」と、これもまた人からの反応より、積み重なる実績数に喜び勇んでいる。
 40%~50%くらい。

 総括するに、自分は「なんとなく公開できるから公開し」「公開するまでが創作のワンセットと感じ」「半ば待っている人のために義務感で」「しかし実績感覚で公開している」ということが、公開する理由の中心軸になるのだろうか。

■感想や反応を貰うと身構える
 なぜ公開するのかという根本的理由が解明されたのは良いが、本題はこちらではない。本題から大きく逸れた。
 自分は臆病な性質をしていると思う。作品を公開した後、何らかの反応や感想が返ってくると、内容を見る前にまず驚く。受け取って、その内容を自分の中に受け入れるまでに凄くストレスがかかるみたいだ。それがどうしてかわからない。

 前もって、その感想や反応がネガティブなものだと発覚していて、受け取ることにストレスを感じるのならわからなくもないが、頂く感想の9割、むしろ10割に近いものが好意的で良心的な感想や反応であることが多い。とても奇跡的なものだと思う。
 封を切るまでは中身がわからないため、「もしかするとネガティブな内容なのではないのか」と不安視し、まずそこでストレスが発生する。封を切って中身を見て、良心的な喜ばしい感想であったとしても、どうにも受け止めきれず、封を切る前の不安も完全に払拭できないまま、「どうもありがとう、それではさようなら」と、怯えるようにすぐさま封を閉じて、遠くへと見えない場所に保管している。

 あんまりこういうことを表向きに表現することはないが、自分でもこの対応がとてつもなく失礼であると感じているし、相手からの好意的な声を素直に受け止めて感謝を返せないのも申し訳なく感じている。どうしてこんなにも自身が怯えているのか、そこがよくわかっていない。
 ということで、一つ一つ推測を立てて、分析して紐解いていく。自分が一体、何に怯えているのか。何を不安視しているのか。なぜ、怯えてしまうようになっているのか。明瞭になれば、少しは心も落ち着いてくれるだろうと信じたい。

●人の好意が怖い
 まず、単純に人の好意が怖いと思っているところ。普通であれば「ええ? 嫌われるより好かれてるほうが良いんじゃないの?」と思う。自分も頭の片隅では、そういう考えはある。だから余計に「人の好意を受け止めて、喜べない自分はおかしいんだ」と不安になっているのもあるかもしれない。
 なんで怖いのかを、何個かピックアップしてみる。

【ずっと好かれる人でいなければならない】
 相手の評価を常にコントロールしようと思っているストレス。良い印象を抱かれたのならば、それを幻滅させないように、必要以上に自分を大きく見せて、どうにかして見捨てられないように維持しようとする傾向があるかもしれない。
 好意的な感想や反応を貰うということは、期待やプレッシャーを載せられるようなもので、裏切りたくない信用に応えたい、そういったストレスを耐え難く感じるため、防衛反応として「人からの好意が怖い」と感じているように思う。
 受け入れてもらえた喜びよりも、それを維持しなければならない苦痛のほうが上回っているようだ。

★解決策:相手の自分に対する評価は相手の思考によるものだから、自分でそれまでもをコントロールしようとしない。

【好意を無下にしたら攻撃される】
 また、相手が熱狂的なファンであればあるほど、対応を間違えれば掌を返して執拗に攻撃されるのではないのか、といった不安もある。これは創作に限らず、「対人交流で失敗したら痛い目に遭う」と、刷り込まれた認知の歪みがあるので、これから波及して、創作でも相手との交流で、妙な対応をしてしまったら攻撃されるのではないのかと怯えているようだ。
 また、相手から貰った感情を、同じくらいの熱量で返さねば失礼かもしれないという変な義務感に囚われているのもある。だが、感想をくださる人がどういった人物かなんて深く知りようがないのだから(匿名での感想であればなおさら)、どう反応するのがその人にとって正解なのか、という正解が見えない対応を強いられているのにストレスがかかっているのかもなあ。

★解決策:無下にするのは頂けないが、100点の対応や過剰サービスを目指さず、そこそこの対応で充分だと思う。

【疑心暗鬼】
 誉め言葉全般をお世辞と考えているタイプ。認知の歪み。自己の作品を卑下しているわけではないし、そこそこ自信を持っていることが多い。だが、相手の感想も同じように良い評価を与えられたとしても、「ああ、そうですか、随分と持ち上げてくださるんですね」って、相手は自分を過剰評価していると一方的に判断している。なんの根拠もないのに。
「甘い言葉には強く警戒せよ、裏には毒針が仕込まれているかもしれない」と思っているのだろう。故に、良い感想が届いても、素直に受け止められずに身構えて「これは本音か? それともお世辞か?」と、その真偽を確かめようと疑念だらけである。それがストレスになっているのだろう。

★解決策:毎回、相手の裏を読もうとするな。本当に毒入りなのは極少数だ。素直に貰って食べてしまって構わん。

●相手の感情を受け止めるのにエネルギーがいる
 悪い感想などがゴリゴリと精神を削るのは周知のことだが、自分にとっては良い感想も、大小熱意問わず何らかのエネルギーを感じ取っており、それにより多少受け止めるのに労力が必要だったりする。
 人が書く文章や言葉には全部、何らかの感情を感じ取ることが多い。必要以上に、人の文章に対して深読みしすぎるところもある。文章が平坦で論理的すぎると、「機嫌が悪いのか」「何か気に障ることでもしたのか」と思ってしまうし、ハイテンションだとその感情の波に溺れて圧倒され、なぜか疲れてしまうこともある。なんでや。

 そして、そのことは自分自身も気付いている。「多くのことを必要以上に読み取りすぎで、拡大解釈のしすぎだ」と。その多くが大きなエネルギーの塊でもなんでもないのに、自身の空想の行き過ぎにより、巨大な何かがそこにあると錯覚を起こしているのかもしれない。

 ところで余談だが、さきほど「穿った見方」と表記しようと思って、「なんか確か、疑ってかかるという意味ではないとか言ってたな」と思い出し、調べてみたら本来の意味は「本質を見抜く見方」と書かれていて、似た意味と言葉である「穿ちすぎ」から意味が波及してしまったのではないのかと調査されていて、言葉っておもしれェーーーッ!! 言葉は生物ゥーーーッ!!

 閑話休題。そういうわけで、感想や反応を貰うということは、自分には「巨大なエネルギーがこっちに向かって押し寄せてくる!」という勢いで受け取っているらしく、それゆえに身構えることが多いのかもしれない。
 いいねとか拍手一つでさえも、ボディーブローを食らうかのような衝撃を食らう。精神力が柔すぎる。なにをそんなにビビってるんだ。そんな一押しに巨大なエネルギーの塊なんて、そうそうこもってはいないように思うのだが……どうだろう……でも感想とかって送るのに勇気いりませんか……その勇気を受け取る覚悟みたいなものが自分もいる……勇気には勇気で報いたい……。

 ただ、エネルギーを感じてしまうのは、上記にある「ずっと好かれる人でいなければならない」と「好意を無下にしたら攻撃される」が根底にあって、それが原因で感想や反応に過剰反応している気がするなあ。

●真摯に一つずつ向き合ってるためストレスがかかっている
 一意見として軽く流せないことが多いような気がする。一字一句丁寧に文を読み、何を伝えたいのかを読み解き、どのような感情を持ってして書いているのかとかを、相手の文章から色々な情報を丁寧に読み解いて解析しようとしているので、めちゃくちゃエネルギーを使ってしまって、嬉しいとか感謝よりも、読み解いて咀嚼するための苦労のほうが上回っているのかもしれない。

「じゃあ、軽く流せばいいだろ!」となるが、もうこればかりは性質みたいなもので、几帳面に何度も文章を読み返してどういう意味だろう、どういう感情だろう、どう伝えたいと思ってるのだろうって、これもまた深読みしすぎているのでしょうね。うわあああああ! やめてくれ!!
 真摯な姿勢は良い心がけではあるが、それを毎度限度も知らずに100%の力でもってして読解していては、本当に身が持たない。そのことをわかってほしい自分よ。70%くらいでいいのだ。それを許せないのは自分が持ってる誠実さだろう。
 いや、自分でも自分のことを誠実だとは思っておらんが。本当に誠実な人は、自分は誠実であるなんてことも言わないだろうし、いやだとしたら、自分はそれに該当するかもしれないが、しかしこうして誠実かどうかという検討をしている時点で誠実ではないのだろうとも思う。言葉遊び。まあこれは、脇に置いておこう……。

 何事も100%で挑もうとするので、息切れを起こしやすいのだろうと思う。普段から手を抜け力を抜けと言われているが、なかなかそういうことができない。抜いてるつもりで抜けていないこともままある。それとも、実は力を抜いているのに抜けていないと勘違いしているのかもしれな……憶測で考察したらもうにっちもさっちもいかんな……。
 自己観察ができているようで、できていない。自己観察に対しても疑心の目を向けて、「本当にそうなのか?」「お前の思い込みでは?」とツッコミを入れたがるみたいだ。素直に第一声を通してくれえ……考察を重ねて深みを増さなくてもいいから……直感を信じて……。

 閑話休題の閑話休題。
 一言で述べるならば、「肩の力を抜け、50%くらいで受け流せ、誠実や真摯さを過剰サービスしすぎるな」。

■総括
 色々と自分の「人からの反応が怖い」という点を、なぜそう感じるのかを考えてきたが、一言でまとめると「対人恐怖症のきらいがある」で終わることでもある。うるせ~~~~! 私はこの変に身構えるところをマシにさせて楽になりたいんだ!!

 それには、まず原因とか自分の中にある認知の歪みや偏見、こだわりなどを解析して向き合っていかないとどうにもならんのだ。あれこれと横道に逸れながらも書いてきたが、それっぽいなあと思ったのは「好かれる人でいなければならない」と「好意を無下にしたら攻撃される」の二点だ。
 どちらの根元にも、「人から攻撃されることを恐怖している」印象を受ける。そこには「人はすべからく私を攻撃してくるものだ」といった認知の歪みがあるためだろう。これを修正する必要がある。……どうやって修正するんだ?

 荒療治であれば、どんどん人と交流を重ねていくことではあるが、これに関しては既に実践済みでちょっと合わず、極限の状態を迎えて恐怖心でパニック状態を起こしたのでちょっと難しい。何かされたわけではないのに、相手の一挙手一投足にビクビクしてしまったため、まともな交流が取れなかったし、相手の厚意も無駄にしてしまった事例が多くあった。
「人は基本的に無害である」と認識して、以前の刷り込みを上書きするためにはどうすればよいのか。なぜこんなにも人が怖く感じるのか。次回はそういうところを掘り下げて観察して分析していこう。次回、書く予定があれば……。