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 2017年と随分前の漫画ですが、ふと目に入って読みました。
 結論から申し上げますと、二回再読したのですが、二回ともボロボロ泣いてました。自分と同じ病の境遇と重ね合わせての感銘なのか、相手へ感情移入しての日常を取り戻して成長したことへの喜びなのか定かではないが、色々と複合的な理由が合わさってボロボロ泣いてたと思う。

 他の反応に目を通してみると、素直に感銘を受けていたり、後半の施術の部分のみを取り上げて「巧妙な宣伝漫画だ」と批判していたりした。読後感は前者の意見と同じであったが、チラチラと「完全実話ではないかもしれない」「対症療法も宣伝のためのものかな」と僅かながらも疑いの目を向けていたので後者の意見も色々とわかる。
 まあ、他者の意見に言及するのは置いておいて、ただ単に自分が読んで思ったこと、感想文みたいなのを書いてみます。漫画を読んで引きずられた感想なので、あんまり漫画に対する感想というより、自己を顧みる独白がメインになりそうだ……。

 長くなりそうなので、畳んでおきます。

■鬱病のこと
 漫画がフィクションであれノンフィクションであれ、物凄く的確に鬱病の状態を言語化されているなと、感嘆としました。重症度や人によって症状に個人差はあると思いますが、少なくとも個人的には色々と「よくわかるぞ、その気持ち」と頷きながら読んでいた。

 そして、鬱病とどう付き合うかという姿勢にも、何やら見覚えのある感覚があった。大抵、鬱病の治療のことを検索すると、「6ヵ月程度の治療で50%が回復し、20%の割合で一年以上かかる」と書かれていて、大体が「薬を飲んで、ゆっくり安静にしておけば治る」という記載をよく目にした。また、鬱病での闘病漫画などでも、わりと年数を経なくとも回復している描写が多かった。

 で、漫画の主人公はその20%のうちに入る方である。しかも、1年どころではなく、およそ20年もの間、鬱病に苦しめられている。自分自身も17年ほどこの病と付き合ってきたので、妙な親近感があった。
 ここまで長年付き合い続けていると、治す治さないといった気力が劣ってきて恒常化し、「これはそういうもので、たぶんもう元には戻れない。だから、鬱病と上手に付き合って生きていくしかない」とある意味の諦観に近い受け入れる姿勢になってくる。「そういう性質なんだ」と足掻いたりせずに受け入れたほうが、なんとなく楽な気持ちになってくる。いや、全然楽でもないけど。もう、抗うことすら面倒だと思えてくるのだ。(学習性無力感みたいだなあ)

 ただ、その思考も最近は薄れてきていて、今ではどちらかというと「こんなもんと長々と付き合ってられるか!! 一生薬を飲み続けるのも嫌だ!! どうにかなるなら治したいわ!! どうにかしたい!! 普通に戻りたい!!」と治したい意欲と決意のようなものが湧き出ていて、曖昧なものを曖昧なままにせず、きちんと向き合って対処しようとする姿勢になってきている。
 漫画の中では主人公の終盤がその姿勢に値するが、「良い方向に向かってきている」というのが、自分でも体感としてなんとなくそうかもしれないと思えた。どのような病でも、「これは治る」というモデルケースが明確にあると、物凄い希望が湧く。今まで「これは治らないもので、一生付き合っていくしかないし、上手く付き合えるように工夫するしかない」と諦めていたものだが、たとえ嘘でもいいから「これは治る」と成功例を見たら、それだけで救いがある。

 ……で、作中内でも提言されていたが、「本人が治すという意識が大事」と彼女さんが言っていたが、ある意味それは間違いではないのかもしれないと思っている。ただ、それを心身共に理解するのは体感的なものなので本当に難しい。誰だって「治したい」と思っているだろうし、「治したいと思っているのに、なんで治らないの?」って苦しみもがいている。
 自分でもここらの方向転換がどうできたかわからないが、個人的に「これかな~?」と思うところを語ってみようと思う。

■精神科
 今まで精神科にかかり続けて、精神科医の下でほぼ一方的に体調を聞かれて適度に答えて、薬を出しておしまいといった状況を何年も繰り返してきた。待ち時間が1時間以上、診察時間が数分というのが基本だった。
 口下手で自己主張が苦手であったため、カウンセリングという選択肢はあったけれど、そちらを選ぶことはほとんどなく、上記のことを17年間繰り返してきた。薬により症状が改善されたかと問われると、よくわからない。自分の場合は、自身の気分や体調は父親の機嫌と体調に大きく影響を受けるため、父親の状態が昔と比較して軟化したために、自身の状態も安定に近付いていったような気もする。

 されども、根本的なことは何も解決していなかった。希死念慮は相変わらず何度も過るし、何度も何度も将来のことを悲観的に考えて、「長く生きれば生きるほど苦しみが増すのなら、今のうちに死んだ方がいい」という思考の結論に行きつくことが何度もあった。
 あまりに苦しくて耐えきれないため、一度、数枚に及ぶ紙に自分の考えや思い、苦しみを書き連ねて、担当医である精神科医に玉砕する覚悟で「読んでください」と提出した。何かが変わるとは思ってもいなかったが、一縷の望みのようなものがあったのかもしれない。「これを読んで、何かアドバイスとか、救いとなる一言が貰えれば」とも思っていたと思う。

 だが、期待したものは何も返ってこなかった。多忙の身であるため、読む暇もないとも思っていたが、返された言葉は「感動して泣いた」という、読んだのか読んでいないのか、よくわからない感想だった。同情ではなく救済が欲しかったので、「この人は私のことを理解するつもりなんて微塵もないのだ」と、酷く落ち込んだ記憶がある。
 そして、過去のいじめにより植え付けられた人間不信な面も表に出てきて、「こいつは私を騙している」「こうやって長々と病を治さないようにして、お金をむしり取ろうとしている」といった強い疑念が心を占めた。いつきても待合室が満席な病棟を見ていると、余計に「精神科医は、患者を治す気があるのか?」と疑わざるをえなくなってきた。

 精神科に通うだけで治るのなら、どうして私は何十年も通い続けているのに、ちっとも治らないのだろう。それはつまり、奴らが私や患者を薬漬けにして、手放さないようにしているからだ。そのような疑いの目が、あの手紙の件をきっかけに強くなっていった。
 自分が処方されている薬の内実を見て、「依存性がある」「ハイリスク薬」「強い離脱症状」などの項目を部分的に読み取り、「外国ではいきなり薬物療法をするのではなく、精神療法を勧めている」「未成年者に対する処方であれば、なおさら精神療法を検討する」「日本では薬物療法に頼り切っている現状がある」という文面なども見てそれを悪い方向に解釈し、それらがさらに「日本の精神科医はみんな、患者を薬漬けにしてお金をむしり取ろうとしているんだ」とますます敵として見る考えが強固になっていった。

 けれど、歯がゆいことに、薬を自己判断で断とうとしたが強い離脱症状によりダメだった。夕食後に毎日飲んでいるのだが、それをやめただけで、一日も経たないうちに、しかもその日の夜にベッドの中で強烈な不快感や不安、動悸に襲われて「無理だ」と感じた。17年も服用し続けているので、すっかり体の一部として馴染んでしまっていた。
 だけど、どうにかしてやめたい意志があった。昔に薬を飲むのをやめたいと言った時、「今薬で安定しているし、お守り替わりと思って」と言われた一言も、ずっと引っかかっていた。お守りとしてこんなハイリスク薬を飲むだなんて、冗談じゃないと。だが、薬をやめるように認めさせるには、「自分の精神状態は薬などなくても大丈夫」と言えるレベルまで、改善する必要がある。それには、薬物療法だけに頼り切るには限界があり、精神療法を取り入れる必要性があると感じた。精神療法であれば、その技法を自分で身につければ、薬に頼らずともどこでも自分自身で対処することができる。
 そうして、今まで避けていたカウンセリングに通うことになった。

■カウンセリング
 カウンセリングに通うといっても、何を話せばいいのかわからなかった。カウンセリングというものは、具体的な問題がクライアント側でもわかっていて、それをどうにかするために利用するものだと思っていたために、具体的な問題が見えない現状、今まで利用することに躊躇いがあった。
 だが、自分の鬱病を治すためには、そういう「通わない理由」を探している限りは、どうにも前進できないと思った。「何を話せばいいのかわからない」という、わからないことを話す。もしくは、「よくわからないけど、凄く苦しい」ということを話そうと決めた。

 通い始めて数回は、何を話したのか覚えていない。だけど色々と限界がきていたようで、部屋に入って椅子に座ると、訳もなく涙がボロボロと出てきたことだけは覚えている。「誰でもいいから助けてほしい」という、藁にもすがるような悲痛な思いがそこにはあった。
 そしてこのときになって、今まで理解できていなかったが、精神科医と臨床心理士は同じ患者と対峙する医療者だが、患者に施す治療の役割が違うということを知った。
 通い慣れてきた頃に、「担当医(精神科医)が、私が話したことをちっとも覚えていないし、話を聞いてくれない」とカウンセラーに打ち明けたところ、双方の役割はそれぞれ異なるということを教えてくれた。
 精神科医は、主に患者の体調面に注意を向けて薬を出すのが役割で、臨床心理士は、患者の精神面に注意を向けて話を傾聴するのが役割である。どちらも患者をサポートしているが、前者は体、後者は心と、それぞれ専門分野が異なるらしい。

 それを知ったからといって、完全に疑惑が晴れたわけではないが、「得意不得意があるから、自分が望んだものが返ってこなかったんだな」「自分が求めていたのは、精神面でのサポートなんだ」ということを改めて知ることもできた。
 あとはこの相談を契機に、担当医の方も話を積極的に聴くような姿勢で対応してくれる数が増えたが、申し訳ないながらも自分自身は「話したらスッキリする」みたいで、今まで「どうして私の話を覚えていてくれないんだ!」と憤慨していたのに、一度言葉として外に出したら、「そんなこと話したっけ?」と、相手が自分の話を覚えていてくれても覚えていなくても、関心を示さなくなった。

■認知行動療法
 カウンセリングに通う前まで、自分なりに様々な心理療法を探してみたが、実際に試すようなことはなく、探し当てて満足することが多かった。頭で考えるだけ考えて、実行せずに終わることが日々あり、どうにかしてその実行力や問題解決力を身につけたいという願望が今でもある。

 しばらく経って、カウンセラー側から「認知行動療法を試してみてはどうか」と提案された。試してみるだけ試してみようと思い、二週間分の行動記録と、認知行動療法をするための用紙を渡された。
 結果から言うと、「なんだか合わないし、疲れるな」と思った。認知行動療法は、認知の歪みを修正し、行動を変化させる心理療法である。「出来事」「認知」「感情」「行動」と四つの状況があり、その「認知」の部分に修正をかけるかんじだ。認知に歪みが生じているときは、「出来事」があるから、「感情」が産まれると考えているが、実際はその出来事をどう「認知」するかによって、その後に産まれる「感情」も変化するという理屈になっている。

 認知行動療法がどのような作用を及ぼすか、どのようにしたいのかということは、頭や理屈では理解できていた。どうやって修正したいのかがわかるし、これを修正すれば感情が和らぐのもわかる。ただそれは「頭でわかる」だけで、心の方では「感情を無視している!」「論理的思考をして感情に蓋をしようとしている!」と物凄い抵抗感があって、認知行動療法をしている最中は「自身の感情を論理で殺している」苦しみのようなものがあった。

 まるで用意された課題を機械的にルールに従って解いているだけで、「認知の歪みがあったんだ!」「こんな捉え方もあるんだ!」という視野が広がるような意外性も何もなく、ただただ「私の感情を無視するな!」「論理的に考えたって、そのときの湧き出た感情をなかったことになんてできない」と苦しくなっていたのを覚えている。そもそも、認知の歪みだって、元より「自分の考え方は偏っていておかしい」と自覚していたので、「こういう考え方もあるよ」と自分で自分の認知に反論しても、「そりゃそうだろ……」と当たり前のことを当たり前のようにしている実感があった。

 そして、認知行動療法は、さほど効果が見込めないことと、やっていて疲れるということから、断念することになった。

■アドラー心理学
 当初、本屋でアドラー心理学が妙に囃し立てられていた。フロイトとユングは知っていたが、アドラーの名は知らなかったので、半ば興味本位に手に取った。もう本当に、救いになるものであればなんでも取り入れるような姿勢だった。

 アドラー心理学の内実は、さほど新鮮味のある内容ではない点と、恐ろしい切り込み方をする思考がある点の二つの印象があった。
 前者の点では、「すべての悩みは対人関係である」とか「劣等感は主観的な思い込み」とか、自分にとっては何度も考えついた結論なので「そりゃそうだ」と何を今さら当たり前のことをと考えていた。
 後者の点では、「あなたの不幸はあなたが選んだものだ」とか「叱ってはいけない、褒めてもいけない」とか「過去というものは存在しない」とか、「何を……言っているんだ?」と頭を抱えたり、読んでいてまるで「鬱病になったのは全部お前の責任であり、お前が鬱病になりたいからなったんだ」と自己責任論で一掃されているようで、読んでいて物凄く苦しいときがあった。当の漫画内でも、やはり同じ点で疑問を呈していたようだ。

 アドラー心理学もまた、認知行動療法と同じく「言いたいことや、やりたいことはわかる。それが効率的だというのもわかる」と、論理的な正しさがあるのは理解できるのだが、やはりこちらも「感情を無視してないか?」「感情を蔑ろにしていないか?」と思わざるを得ない劇薬だった。
 自分を責める癖がある人が読むと、より強く追い打ちをかけるような解釈をしてしまう危険性がある。上下セットで売られていて、「一巻だけ買って、それが良かったら次を買おう」と思って一通り目を通して読んでみたが、当時はアドラー心理学を受け入れるのがあまりにもきつくて、一度目を通しただけで本棚の奥に取り出されずに、むしろ恐ろしいものを扱うかのように、目に触れないよう封印していた。

■今現在は
 ……さて、精神科にかかって様々な療法ややり方を試し、試行錯誤してきたが、上記の断念は過去のことで、今現在は「良い方向に向かっている」と思っている。なんとなく。
 うまくいかないのはどうしてだろうと、考えた。何が自分に合うのだろうと、考えた。2020年7月頃に、「精神科医も臨床心理士も、私の病は治せない」と気付いた。この気付きが結構、大きな成果物だったように思う。
 今まで、「どうして私の病を治してくれないの?」「どうして私のことを理解してくれないの?」と、相手に私の病を治させようとする一方で、自分は酷く受け身の状態だった。

 冒頭で申し上げたことを重ねて言うようだが、これもたぶん、頭で理解していても、体感で実感するのとはまた異なると思う。まず、「彼らは私の病を治すことはできない」ということを実感しなければいけない。ここで大切なのが、別にこれは絶望的なことではないし、「この病は一生治らない」ことを決定づけることでもない。サポートはしてくれる。治る寸前まで。だが、自分自身が「これをどうにかして治したい」という強い意志のようなものがない限り、完全なる完治というものには至らないことに行きついた。

 治らない、治せないじゃない。私自身が鬱病を治さないように決心しているのだ。本人にとっては不本意なことだし、「そんなわけない!」とか「治らないのは私のせいってことか!」って怒りが湧いてくるかもしれない。私自身、当初はそう思っていた。凄く感情的になって、拒否反応を示していた。
 だが、冷静に分析してみると、過去の私は「自分の病を他者にどうにかしてもらおうとしていた」のに気付いた。上記の怒りの感情も、よくよく考えれば他者に向けられた攻撃的な意見だ。一律して、「この弱った私を大事にしろ!」と他者に対して訴えかけている悲鳴である。

 じゃあ、肝心な私自身は何をしているんだ? 弱った私を放っておいて、傷付いた心を他者に癒してもらおうとして、私自身は私自身に対して何もしないのはおかしくないか? 私がどうしてほしいかなんて、私が一番知っていることなのに、なんで誰かに癒してもらうことにこだわっているんだ? 効率悪くないか?
 私自身をいじめて突き放して向き合わずに逃げているのは、他者ではなく私なんじゃないのか?

 すぐには納得できないと思う。「他者に傷付けられた傷を、なんで私がわざわざ癒さなきゃいけないんだよ」「他者が傷付けたのなら、他者がその傷を癒すべきだ」「これは私が傷付けた傷じゃないんだから」とか、たくさん言い訳を考えると思う。プライドのようなものなのかもしれない。
 ただ、それこそが「治らない決心をしている」とも言える。自分で治癒したほうが早いのに、他者に自分の責任を負わせようとしている。「あなたが私の面倒を見るべきでしょ」と言って、自分の力では治そうとせずにいて、しかしだからといって他者が期待通りに自分の面倒を見てくれるわけでも傷を癒してくれるわけでもないから、余計にイライラして「どうしてわかってくれないんだ!」ってなる。
 だけど、そうやって自分が自分を放棄することだって、自分の手で自分を傷付けることにも繋がっている。傷付いた自分は、誰でも良いから助けてほしいだけであって、別に救ってくれる人が他者であろうが自分自身であろうがどちらでもいい。ただとにかく、この苦しみから解放されたいだけなんだ。

 それらのことに気付いて、色々と整理して、そしてこの漫画を読んでみて。あの時、読んでいたら物凄い抵抗感を抱いていたアドラー心理学に、もう一度手を伸ばしてみた。まだ全編通して読めていないが、不思議と前と比較して受け入れられるようになっていた。
「頭ではわかるけど、感情面では無理」と拒絶していたのに、今では「確かにそうだな」「どうやって取り入れよう?」と、冷静になって一文一文を読めている。挫折した認知行動療法も試してみたが、こちらもまた拒否反応がなく、実行することで少し心の落ち着きを取り戻すこともできた。

 どうしてこのように受け入れることができたのかと振り返ってみるに、「自分で自分の病を治す」という決心もそうだが、それと同時に「思ったことを正直に吐き出して伝える」という、「自分の感情を無視しない」ことも取り入れていた。
 今まで相手に合わせることが多かったが、少しずつ「それは嫌だ」「やりたくない」「私はこうしたい」という、自分の気持ちを主張する回数を増やしていった。

 無論、これには物凄い勇気がいる。反発することで、「今まで従順だった自分が否定することで、反抗されたと相手が怒るかもしれない」という不安もある。実際、自分の主張が通らずに、相手が「どうして言う通りにならないんだ?」と怒ることもあった。(主に父親の話だが)
 話を聞いてくれなかったことも、受け入れてくれなかったこともあった。だけど、ここで大事なのは、相手に受け入れてもらえなかったことじゃなくて、「自分の感情を優先して、それを相手に伝えたことだ」と思う。何が何でも、自分だけは自分の本心の味方でいて、自分が自分の本心を守ってあげて、その本心を相手に伝える橋渡しになる。
 その決心と、そこからの行動によって、「私は私の感情をちゃんと大事にしてくれる」と安心して、今まで拒否反応を示していたものも、冷静に読めるようになっているのかもしれないと推察している。

■勇気
 アドラー心理学は勇気の心理学と言われている。前進するために物凄い勇気がいる。たった一歩前に進むだけでも、物凄い体力と気力を使う。だけど確実に、自分にとって生きやすくはなる。「自分の本心を大事にして、それを相手に伝える」というのも凄く勇気のいることだったが、それをすることで、私は随分と本心を言えるようになった。
 全部をさらけ出すほどではないが、カウンセラーや心を許した人、あとは反発することさえ恐怖でできなかった父親にでさえ、抵抗しようと自己主張をしたのはかなり大きな一歩だと思っている。「反抗期は必要なことなんだな」と、反抗期がなかった時代を振り返りながら、今さら遅れてきた若干の反抗期を迎えているような気がする。
 いい年をして、と思うこともあるが、「自分は親の人形じゃない」のだから、少しくらい反抗心を示したっていいだろうとも思う。

 まだまだ、勇気を出すことはたくさんある。今でも人が怖いし、そのために人と関われずにいる上、仕事での支障も大きく出ている。やりたいこともできないでいる。自分が本当はどうなりたいかというのも、イマイチよくわかっていない。
 ただこれも、一歩一歩を確実に、勇気を奮って踏み出して、回数を重ねていくことが大事なんだろう。「勇気ってなんだよ」って疑問にも思ったりするが、その曖昧な概念も、これから先、ハッキリとは言わずとも、ぼんやり感覚的にわかってくるのかもしれないなあ。
 将来そうであってほしいし、自分もそのつもりで、できるだけ生きやすい人生を開拓するため、じわじわと遠回りや遅くてもいいから、勇気を出して前進していきたいところです。

■追記
 綺麗に纏まっていたところ悪いが、漫画の話に戻ると、主人公の友人君の意見にも色々と「わかるなあ」と思う面もあったりする。両方の考え方や気持ちがわかる。
「良い医者に会ったから」「支えてくれる彼女がいるから」「親に愛されていたから」という単語全部、「治さない決心をしているんだ」という主人公側の意見もよくわかるし、「環境のせいで、自分がこうなっている」「環境さえ変われば、自分がこうなることはないのに」って悲痛な叫びをもたらしている友人君の感情もわかる。

 事実、闘病系の漫画でよくあるのが「どこから出てきたかよくわからない、自分を支えて理解してくれる、恋人(伴侶)ポジション」がまったく理解できなくて、なんとなく「恋人や伴侶がいない=自分は治らないんだ」って紐づけてしまう。「自分で治した」といっても、「でも、良いカウンセラーや恋人がいたじゃん」って言い返したくなるし、その支えてくれた存在が病を治す上で大きいとも思っている。
 あとは、主人公があの環境から自力で抜け出したことも、治療過程で良かったのではないのかとも思う。あの父親の下で酷くなった鬱病を安心して治せるとは思えない。事実、自分も父親の機嫌の変化のおかげで、自分自身の機嫌や体調も大きく左右したり、鬱病が酷くなったりもする。

 現状では、「安心して治療に専念できる環境」ってのは凄く大事だと思っている。周囲が常に戦場状態の中で、自分のことを考えて、自分の心の治療を専念するのはなかなか困難だ。
 うーん、でも、どうなんだろうなあと、まだ確信もさほど得られていない。アドラー心理学を素直に履行するのならば、どのような環境でも人は変われると言われている。また、同じような境遇で生きている人でも、鬱病にならずに元気に過ごしている人もいる。その差は一体どこから出てきたのだろう。「過去の出来事をどう意味づけしたか」で、やはり「今この環境」が自由自在に変わるのだろうか。

 まだまだ勉強することが多いです。