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 あれから一週間も経ってないが、色々と勇気を出してやってみたことがある。怯えながら、震えながら、それでも前に足を踏み出してみるのは、本当に勇気がいることだ。わりと他者から見て「その程度のことで?」ってレベルのものに臆して恐怖しているが、実感としては一目散にこの場から逃げ出したいくらいに怖い。
 このまま前に踏み出したはいいものの、早くもこの場から逃げ出したくなるし、どうしてかこのまま先、一歩でも踏み出してしまったら、何があっても足を止めてはいけないし、怖いことに直面しても立ち止まってはいけず、逃げ出すこともできないと、さらに恐怖心や不安が倍増するような考えを巡らせている。

 勇気を一度出したら、ずっと出し続けなければならない。気力が落ちていても、逃げ出したくなっても、傷だらけになっても、死の瀬戸際にいても。そのように考えてしまうから、勇気を出したことを自ら讃えるのではなく、「まだまだこれも序の口で、達成しなければならないタスクはこの先にいくらでもある」と、達成感よりも悲愴感に苛まれている。
 一度勇気を出して足を前に出したら、何があってもそこから逃げ出してはいけないと考えている。脅されても、恫喝されても、傷付けられても、勇気を出さなきゃいけない。そんな思考が、余計に私の首を強く締めつけて、ただただ辺り一帯が恐怖に染め上げられていた。

 恐怖と戦わなければならない。それすらも恐怖だ。恐怖に打ち勝って、前に進まないといけない。自己受容ができていないうちに、自らを奮い立たせて前に押しやったのが、少し早すぎたのかもしれない。自分のことをどうやって守ればいいかわからないまま、何の準備もできていないうちから武器も持たずに恐怖と戦おうとしている。
 それともこれもまた、一時の気の迷いからくる偏った思考と感情なのだろうか。

■課題の分離
 じっくりと読み込んではいるのだけれど、たぶん実践項目を色々とすっ飛ばしてやってるので、物凄い反動が来ているのかもしれないなあ。まずはたぶん、自己受容をする必要があって、自分がそのままの自分でいても大丈夫であることを、できるようにしたほうがいいのかもしれない。
 今自分がしようとしているのは、他者の課題と自分の課題の分離である。一応、ここでの影響であまり上手にできておらず、そのために「世界はみんな敵だ」という認識が、薄らと出てきているような気がしている。

 自分自身、「他者の課題」に首を突っ込もうとする面があるし、他者からの言葉に左右されてしまう、いわゆる「他者が自分の課題を介入すること」を許してしまっているところもある。そのことを学んで意識してから、何度か「ああ、今私は他者の課題に足を踏み込んでる」と思ったり(総じてそのとき、居心地の悪さを感じると同時に、相手も苛立たしげになる)、「今、自分の課題に介入してこようとしているな」と思って、怒りを覚えたりする。

 ただ、一週間ばかり深く観察してみて意外に思ったのだが、私は「他者の課題」に介入することがかなり多かった。本当に無意識のうちに、他者の課題に介入しようとしていた。他者に干渉しないほうだと思っていたので、自分でも驚きである。
 直接、相手に向かって意見を申し立てたりするわけではない。まったくないとは言い切れないが、それらの行為は身内に対して時折行うもので、全く知らない他者に対しては、どちらかというと卑屈だった。
 しかし、その卑屈さもいわば「他者の課題」に踏み込んでいる諸元でもあった。相手の評価を気にしているのは、「自分をこう見てほしい」と、相手を操作しようとしているからだ。相手が私のことをどう思うかは、「相手の課題」であるし、そこに介入しようとするのはあまりよろしくない。

 相手の評価など気にせず、自分の課題に集中して、やるべきタスクを黙々とこなしているとき、物凄い充実感があった記憶がある。「こんな発言をしたらどう思われるか」「こんな作品を出したらどう思われるか」それらのことなど一切考えず、自分の課題に打ち込んでいるときほど、前に進んで成長しており、心地よい充足感に満たされていた。

 そのときの感覚を取り戻そうと、何度も思案を巡らせながら試行錯誤しているが、なかなか思うようにいかない。どうしても他者に目を奪われ、自分の課題をこなすことでも、思考のどこかで「自分の課題をこなしたことを他者に見せることで、良い印象を与えるかもしれない」と、「自分がこの課題に取り組んでどう思うか?」よりも「他者がこれを見てどう思うか?」に注視して意識が逸れて、結局良い結果も充足感も得られないことが度々多くなっていった。

■褒めるという行為
 人からの反応が見えたり、反応が数値化されて見えるSNSが苦手だ。評価されるというそれだけで、居心地の悪さを感じる。だがしかし、評価することに快感を得られるということも、私は知っている。それが悪い評価であっても、良い評価であっても。
 上記のように「自分の課題」よりも「他者の課題」に踏み込むようなことをしているのは、おそらく「褒められたいから」だと思う。幸いながらも、作品を見せる上で、酷く貶された経験はほとんどない。褒められた数のほうが、多いかもしれない。だが、長期的に見てそれで良いかと考えると、褒められることでさえも人の目をよく気にするようになってしまい、身動きが取れなくなってしまった。

 人の目に留まる前は、ただ黙々と「自分の課題」に着目し続けて、自分だけの世界を作り上げて、自分の納得がいくものを作り上げ、その完成を見届けただけで幸福感に溢れていたのに、人からの褒められた感想や言葉をもらったことで、嬉しい感情と同時に、「もっと褒められたい」といった「他者のために生きる道」に足を踏み入れてしまった。
 一見すると健康な人生を歩んでいるように見えるが、もしも望む通りに褒められなければ、「どうして褒めてくれないんだろう」と落ち込んだり、反応が得られなければ「どうして見てくれないんだ?」と、怒りを覚えることに繋がる。だが、「他者は私の期待を応えるために生きているのではない」。それと同時に、「私は他者の期待を応えるために生きているのではない」。

 他者は私の作品をずっと褒めるために生きているわけではないし、私自身も、他者が気に入ってくれるような作品を作り続けるために生きているわけではない。

 当初、この「褒めてはいけない」ということに理解が及ばなかったが、過去の経験を顧みて観察してみるに、最終目的がここに繋がるために、「褒めてはいけない」のだなと合点がいった。自分も安易に褒めたりする場合があるので、それも本当は毒なのかもしれないと思った。
 ……で、「過去の経験に基づいて、今の行動が決定されているわけではない」という目的論も採用するならば、今の私の行動は、「褒められたい」から「作品を作ろうとしている」のだろう。そして、最近は作るのが辛くなってきたのは、「評価されたくない」から「作るのが辛い」のだろうか。うがー、難しい。
 元々は、「褒められたい」という感情や目的なんてなかったはずなのに、「褒められたい」「認められたい」という感情や目的にすり替わってしまったために、物凄く作るのがつらい。出来上がっても、充足感がない。「楽しいから作りたい」に戻りたい。

 ただこれ難しいのが、上記の「褒める」という行為で自分が遠回りして苦しんでいるが、「じゃあ、好きな作品のことの感想も言っちゃダメなのか?」と思ってしまった。
「褒める・評価するなどは優劣をつけるため、してはいけない」とされていて、自分自身もその評価により苦しいと感じたので理解できたが、同時に「相手に対して感謝の言葉をかけたり、嬉しいといった素直な感情を出すのは勇気づけになるから良い」となっていて、「どれが褒めるや評価で、どれが勇気づけになるんだーー!?」って大混乱している。
 自分がよく使いがちな「凄い!」という言葉も、「能力のある者が能力のない者を褒める行為である」と指摘されていた。ええ、なんで……相手を見上げて言ってるかんじなんですが……。(ただこれもまた、「見上げる」ということで上下関係を作り上げてるので、あまりよろしくない)

 勇気づけと褒める行為の違いが、まだよくわからない。「対等な関係に対してかける言葉」を勇気づけと言われているが、考えてみると、自分自身、誰に対しても「自分より上の人か」「自分より下の人か」の二極で人を見ているなと気付いた。対等な関係というものがわからない。
 例文で「友人に声をかけるとき、あなたはなんと言うか」とあったけど、素直に「凄い!」と思ったことは大体「凄い!」って表現しているし、「ここはあなたの良いところでもあるよ」って思ったら、そこもそのまま伝えるようにしている。だけどこれは、褒める行為になってしまうのか? それとも尊敬の念? 尊敬って自分よりも上の人に対する行為と思っていたけど、アドラー心理学では「対等な関係に対するもの」となっていて、じゃあ私の「凄いなこれ!」という発言も別に褒めるとかそういうのではない……のか……?

 おお……わけがわからないよ……。とりあえず、今はその「他者への評価」の項目について熟読している最中なので、また具体的にどうすればいいのか、どのようなことが勇気づけになるのか、自分の「凄い!」という感情や行為は褒める行為なのか、尊敬の念なのか、そういうのも追々わかってくるのだろう。

 アドラー心理学はなかなか理解するのに困難で、かつ不動の定義ではなく、「今この瞬間」の出来事を常にリアルタイムで観察+分析して「あ、これはこうだな」「これはこうなってる」と着目して切り分けていく作業が必要なので、とても大変で毎日が勉強の連続で、だけれど不思議と物凄く楽しい。
 この記事の冒頭を書いているとき、物凄く恐怖心とか創作できない悩みとかで苛まれて苦しみ足掻いていたのに、アドラー心理学を読んだり、そのことについての考えを一つずつ目を向けて認識して処理していくと、すっかりと整理された状態になる。
 一回読み込んで、長期間効果が長続きするってわけではない。定期的にアドラー心理学のことを考えて、自分の今の状態を整理する必要がある。部屋の掃除と同じだ。だけどそうすることで、なぜだか今まで出来なかった「勇気を出す」という行為に足を運ぶことができた。本当に凄い。